精一杯生きよう


聖子ちゃんのがんが見つかってから亡くなるまで、高橋さん自身、「なぜ、うちの子がこんな病気になるんだろう」という悔しさ、「聖子がこの世から消えてしまう…」という恐怖心と孤独感に苛まれていた。

支えになったのは、同じ辛さを抱え、同じ目線で話ができる、小児がんの子を持つ親たちの存在だった。発病後すぐに担当医から、「がんの子どもを守る会」を紹介してもらい、九州支部会に参加したところ、そこには同じ立場の親たちが集まっていた。
「当時は『がん=死』という時代でしたから、聞くも涙語るも涙という話題ばかりでしたが、それでも『自分ひとりではないんだ』という心強さがありました」

聖子ちゃんが闘病していた病院で先輩達と親の会をつくり、一緒に病気のことを勉強した。「兄弟以上のつながりで、戦友のような存在」という親の会のメンバーとは、小児がんに関するボランティア活動を続け、お互いの子どもの年忌を行うなど、今でも交流が続いている。

聖子ちゃんを亡くした後、そうした親の会の仲間たちと、あるいは一人で、まず取り組んだのは、院内学級を普及すること、神経芽細胞腫のマススクリーニング(集団尿検査)を広めること、そしてがんの子どもを守る会の支部会を活発にすることだった。院内学級は当時はまだ稀で、聖子ちゃんが闘病していた病院にはあったものの、医師がポケットマネーで維持しているような状況だった。また神経芽細胞腫とは聖子ちゃんがかかった小児がんであり、乳幼児期に尿検査を行うことで早期発見が可能になることがわかっていたからだ。

これら以外にも、「母子家庭の支援は整っているのに父子家庭の支援は整っていない」「お母さんが入院中の子どもに付き添っている間、お父さんが孤軍奮闘している」など、その時々で気づいた問題に、その都度取り組んでいった。問題を見つけては、解決のために走る。そんな日々を支えるのは、やはり聖子ちゃんの存在だったという。

精一杯生きよう

「短い期間だったけれど、聖子は精一杯生きてくれました。そして生きるということがいかに大事か、一生を振り返ったときに『幸せだった』と思える生き方をしなければいけないと、私に教えてくれたんです」