産婦人科医から在宅ホスピス医に

産婦人科医から在宅ホスピス医に

 産婦人科医から在宅ホスピス医に


在宅ホスピスケアグループ「パリアン」(http://www.pallium.co.jp/)代表 の川越厚さんは、これまでに約2 000人のがん患者さんを家で看取ってきた。もともと産婦人科医だった川越さんが在宅ホスピスの道に進んだのは、42歳のとき。自身が大腸がんになり、死線をさまよったのがきっかけだ。

当時の川越さんは、母校である東京大学に産婦人科講師として戻ったばかりで、研究、教育、そして最先端の臨床に邁進していた。そんな矢先に見つかった大腸がんはすでに進行しており、リンパ節も含めて取り除く大手術を受け、さらに術後に腸閉塞を起こして再び開腹手術を受けた。二回の手術と抗がん剤治療で何とか乗り越えたものの、病気になる前と同じように働ける状態ではなかった。
「ハンデを背負った体で競争社会を生きていくのは無理でしたし、『死ぬかもしれない』という崖っぷちに立ったとき、自分にとって何が一番大事なのかを徹底的に考えました。」
自分のことを本当に心配してくれる家族のためにもっと時間を作りたい――。そう考えた川越さんは大学を去り、家族との時間が持てること、医師としての充実感が持てることを条件に、新しい職場を探した。そして出合ったのが、在宅医療だった。

「看護師の妻が、日本の在宅医療の草分けである佐藤智医師の白十字診療所で働いていたんです。当時は在宅医療なんてほとんど知られていない時代で、制度も法律も追いついていないような状態でしたが、だからこそ、やりがいがありそうと感じました。」

看護師の妻と培ったホスピスケア観

看護師の妻と培ったホスピスケア観


42歳で在宅ホスピスの道に入り、パリアンを立ち上げたのが53歳になった2000年のこと。スタート当初から、クリニックと訪問看護ステーション、ボランティア組織も一緒に立ち上げた。理由は、白十字診療所での経験から「在宅ホスピスは医師だけでできる医療ではない。むしろ看護が大事だと痛感したから」。

「治す医療は、医師が行う医療を他の職種が支えてくれる。でもホスピスケアでの医師の大事な役割の一つは看護師を支えること」と川越さんは言う。こうした“ホスピスケア観”は、一人ひとりの患者さんを看取るなかで養っていったものだ。

看護師の妻と培ったホスピスケア観

たとえば、だんだんと体が弱ってきて、這ってトイレに行くようになったときにどう対処するか。病院であれば、迷いなく「膀胱留置カテーテル」といって膀胱に管を入れるだろう。しかし、看護師である妻の博美さんから言われたのは、「これを入れることで患者さんがどれだけ苦しむか。少し手はかかるけれど、起こしてあげたらトイレまで行けるし、本人もそう希望している。それなのに、どうしてカテーテルを入れようとするの?」。

「私は、カテーテルを入れた方がケアする側が楽になるし、尿量もわかるので、良いに決まっていると思っていました。カテーテルが痛いということは自分も経験したことがあるのでわかっていましたが、医師という立場ではなかなか違う発想にはならなかったのですね」

同じように、「口から食べられなくなったらどうするか」に対する考えも、病院で医師の立場から考えてきたこととは違った。医師としては、では栄養はどう入れようか、それまで服用していた薬は点滴で入れるか、筋肉注射で入れるか、座薬にするか、といった次の一手を考える。しかし、看護師である博美さんは「患者さんは食べられなくなった自分をどう感じているのか、ご家族はどう感じているのかを考えて、気持ちを汲んでケアするのが大事」と言った。

「最初は病院以上の医療を在宅でやろうと意気込んでいましたが、3カ月も経つ頃には、在宅ホスピスは病院医療の延長ではないこと、不安や苦しみを取り除き、患者さんをみる医療にこそ医の原点があることに気づきました」

痛みに寄り添う

痛みに寄り添う


痛みに寄り添う

川越さんのクリニックを訪れるのは、現代医療では治らないと言われ、それまで信頼して治療を託していた主治医のもとをつらい気持ちを抱えて去った患者さんばかりだ。末期がんの場合、平均的な在宅療養期間は2カ月ほど。なかには最初に相談のために外来を訪れて、1週間、あるいは3日で亡くなる方もいる。

その長くはない期間で信頼関係を築いて、最終的には患者さんを看取った家族と「(納得のいく最期を迎えられて)よかったですね」「ありがとうございます」という会話ができるほどに、「残された日々が豊かになるように支える」のが川越さんの仕事だ。そのためには、「患者さんの苦しみに踏み込まなければいけない」と言う。

あるとき、50代の乳がん末期の患者さんがクリニックを訪れた。秘書として働き、独身生活を楽しんでいた40代後半にがんが見つかり、がんに立ち向かう治療を拒否して緩和ケアを希望された患者さんだ。最初に相談外来に来られた時、その患者さんはボロボロと涙を流された。突然、命の終わりが目前に迫ってきたことを受け入れられずにいたからだ。「そういう方には時間をかけて、その苦しみに寄り添って支えなければいけません」と川越さん。

人の気持ちには波がある。たとえ、一旦は病気を受け入れたかのように見えても、状況が変わり、たとえば体力が低下して仕事が続けられなくなったりすれば、やはり悲しい。「その患者さんも、秘書の仕事を辞め、『自分は何のために生きているんだろう』と、まさにスピリチュアルな痛みで苦しんでおられました。そうすると身体にも影響があり、痛みが強くなるのです」。さまざまな痛みを取り除く手伝いをし、支えるのもホスピスケアだ。

先の患者さんに対しては、身体的な痛みを緩和することはもちろんのこと、「パリアンでボランティアをされませんか?」と提案した。この患者さんは幸運にも元気になって、最初に相談外来を訪れてから4年経った今でもボランティアとして手伝ってくれている。

最後まで残る絆は「人」

最後まで残る絆は「人」


「患者さんに寄り添うというのは、ただ隣にいるだけでもなければ、患者さんが言うことを何でも受け入れることでもない。私の仕事は、その方が繋がれてい

 最後まで残る絆は「人」

る“鎖”を一つひとつ外すお手伝いすることだと思います」と、川越さんは言う。
会社や趣味のこと、目標、お金、友人、病院医療――。人は生きていくなかで、知らず知らずのうちにいろいろな“鎖”に繋がれている。そうやってがんじがらめになっている患者さんをそのまま受け入れるのではなく、必要のない“鎖”を一つひとつ外していくことが、死を前にした患者さんに対する最大のケアだ。
ただし、それでも残る“鎖”がある。それは、「人」と川越さんは言う。もっと言えば、多くの場合は、家族だ。

40代で亡くなった乳がんの患者さんは、ある日、カレンダーのある日付を指さして「私はここから先はいないから」とご主人に告げた。そして、その日が近づくにつれて日に日に体調が悪くなり、いざ、その日を迎えた朝、こん睡状態に陥った。時計の針が夜の12時をまわった頃、ご主人は「酒を酌み交わしながら看取ろう」と、長男と二人、枕もとに座った。それから2時間ほどして、患者さんはすっと息を引き取られた。まるでちょっと微笑んでいるような、とても穏やかな表情の最期だったという。

大事な人と最期にそうした時間を持てるのが、家の良さだ。そして、家族がいない人であっても、やっぱり人と人との繋がりは最期まで残る。

「これまでに一人暮らしの方も300人ほど家で看取ってきました。なかには天涯孤独の方もいましたが、そうした方でもやっぱり人を求めます」

在宅ホスピスケアをはじめて25年、パリアンを立ち上げて15年。自分が理想とする形はできあがってきた。今の課題は、次の世代にいかにつなげるか、だ。

「在宅ホスピスは、カリスマ医師が引っ張っていく医療ではありません。チームが育って、チームが残ることが大事。ですから、私がいなくなってもチームがしっかり残るように、去り際を考えています」

実は先日、川越さんはテレビのドキュメンタリー番組の取材を受けた。これまでにもテレビの取材は何度も受けている。ただ、今までの主役は患者さんだったが、今回の主役は川越さん自身だ。「次の世代に向けていい遺言ができました(笑)」。川越さんのその笑顔が、今日も患者さんや家族の支えになっているのだろう。

(2014年9月)